私が感じる苦しみの全ては、私が全てを否定することから始まっている
あらゆる物事が、善50%、悪50%、と善悪を半分ずつ含みながら成り立っているとしたら、私は悪50%のほうを根拠として、その物事を否定する。しかし、善50%のほうを根拠とした、その物事が世の中に存在することの意義は認めざるをえず、そうして、私は、その物事を完全抹殺できない現実に苦しむ
全てをきれいさっぱり0%にして、苦しみから逃れる方法は、結局のところ自分を0%にするしかない、との結論に至る。つまり自殺である
全てを否定しきれないのであれば、自分の存在をゼロにするしかない
否定、自殺、それが私
ーーというのが、40年以上にわたって抱え続けている「私」です
が、最近、地軸が動くような、自分の世界の根本的な変化のきざしを感じている
きっかけは占いの勉強を始めたこと
自分探しの一環として占いを学ぶことは、なんというか非常に有意義で、第一に、他人に頼らず自分を客観視する手段を手に入れることができ、第二に、「他人」をいう自分とは異なる素材でできた人間を、自分とは異なるもののままで認めることが容易になる
私が選んだのは陰陽五行に基づく占星術(算命学・紫微斗数)と卜術(断易)で、なぜそれを選んだのかというと、単純に言って当たるから。外さないから
その算命学によると、私の本質(主星)は鳳閣星となる。あるがままの自然主義で、見た目はのんびりしているけれど、内面は複雑で繊細。外の世界を見るというより感じる。まあ、その通りです。で、算命学は、古来から学問的に学ばれてきた経緯があり、性格分析、天中殺分析、家系分析、運勢分析等の膨大な理論体系ですが、本質はあっさりしている。主星がすべて。主星を生かすことこそ、人が生きていく上で最も重要なこと。主星がダメになると、生まれ持った他の星まで派生してダメになってしまう、ということです
主星を生かすとは?
私の主星は鳳閣星。あるがままの自然主義。見た目はのんびりしているけれど、内面は複雑で繊細。外の世界を見るというより感じるーー
世の中のあるがままを受け入れる
ということですよね、きっと
「否定」とは逆ベクトル
世の中のあるがままを受け入れる
とは?
私は世界が苦渋に満ちていると感じる。争わなくてもいいのに争い、痛みは弱いものへと向けられ。強いものはさらに強く。そして強さの条件とは、弱い者には決して感情移入しないことであったりする
ただ、感情移入しないことは悪なのか? そもそも、人は、自分に与えられた役割を生きることしかできない。ただ与えられた役割をまっすぐに生きている結果として、弱い者と自分とでは立場が違うことを、経験則として受け入れているに過ぎないとしたら。感情移入するか否かの問題ではない。自分の眼前の道を見るか他人の道を横目で見るかの問題になる
つまり、根本の問題は、強いものと弱いものが存在するのが、この世界ということだ。たとえば食肉とされる牛や豚は絶対的に弱い。彼らにも心はあるのに
その世界を、私はあるがまま受け入れることができるのだろうか
否定し、自分だけは違う、というのが私だった。自分だけは清いまま死にたかった。現実には存在しない完全な世界を追い求めて小説を書き続けた
その態度を変えてみるとしたら
まず世界を受け入れる。人間を受け入れる。あるがままを受け入れる。人から求められている役割をひたすらにこなす、とか