地球に与えられた幸せの総量は、決まっているような感じがする
とある国の幸せは、別の国の幸せを奪う事から増加する
人類の幸せは、人類以外の動物の幸せを奪うことから増加する
とがある人の幸せは、別の人の幸せを奪うことから増加する
幸せを奪う、奪われる、というのは、私という一個人の評価基準によるランク付けでしかなく、評価される無数の人々や生物の感性の多様性を考えれば、実はまったくの筋違いで、むしろ余計なお世話とか、失礼とか言うレベルの物言いなのかもしれない
つまり、幸せと言う概念は、あくまでも個人的なものなので、本人の幸せと感じればそれでいいのかもしれない。競争に負けたって幸せな人は幸せだし、物がなくたって幸せな人は幸せだし、物があふれていても不幸な人は不幸だ
だからもしかしたら私が悩むこと自体、スジ違いで失礼なことなのかもしれない
ただーー
私は物事を変えることが怖い
自分が所属する会社の利益のために、他者を犠牲にして不幸にすることが怖い
大きな繭の中で膝を抱えて、眠りながら、ふわふわとした夢を見ていられるだけの人生であれば、幸せなのにと思う
誰も傷つけることなく、誰からも傷つけられることなく、現実と戦うことなく、自分に与えられた力がいかに弱いかに打ちのめされることなく、他者の幸せを妬むことなく、ただ漂うように生き、そして、ある日時間が切れて死ぬ
なんて幸せなのだろう
会社で働き、出世して、物事を決めていく、という人生とは正反対
しかし、今、私が向かっているのは、その正反対の方向
なぜ私は、両極端にしか行けないのだろうか
家にこもって売れない小説を書き続けるか、外に出てガンガン働き、ガンガン出世するか
私はただ、就職した会社の中で足りない機能を補うことに努めただけ。必死の形相で働く若い世代の手助けをしているだけ。それが会社の権力者層の目に止まり、ものすごいスピードの地位の引き上げにつながっている。私が出世を望んだわけではない。ただ、そうなってしまっている
だから、私は毎日が怖くてしょうがない。私が一生懸命働くことによって、私は幸せな人と不幸な人を作り出している。今の私は5年前の私ではない
もう醜い外界とは無関係な自分ではない。日本の経済活動の中でしっかりと入り込んで、社会のどこかに影響与えている
私は何をしているのだろう。自分はどこにいるのだろう
どうしたら幸せなんだろうか
私を幸せにする手段
やはりこれだろうか。前回02で書いた結論
あるがままを受け入れる?
でもだとしたら「生命」って何なのだろう
あるがままが生命の本質だとしたら、生命が存在することの意味とは? いや、意味という定義づけすら、あるがままという概念から外れるのか?
すべての生命のあるがままを受け入れる
痛みも苦しみも不幸も幸せも全て
なんだか、去年そういう感じの本を読んだ気がしてきた。