社会への適応

人から嫌われることに慣れる 05

他人の目を見てしゃべるのが苦手だ。

他人の目に映る自分に恐怖するのだ。

侮蔑、怒り、呆れ、少しでもそういった負の色が他人の目の中によぎるのを、私は恐れる。ほんの1%の否定が100%に見える。もう全然ダメだと思う。

悲観と楽観のバランスが、私はあまりよろしくなく、どうでもいいところで強烈に悲観的だったっり、逆に妙に楽観的だったりする。重要なところは感情に流されないので悲観でも楽観でもない。ほんとうにどうでもいいところで、理性からかけ離れた自分にふりまわされて右往左往して頭を抱えるのである。

他人から嫌われることには恐怖を感じる。

しかし、理性で考えるなら、他人から嫌われることを避けるのは不可能だ。

第一に、人間は、理想を追う傾向の人間と、現実を受け入れる傾向の人間に大別される。

理想を追う傾向の人間は、人の好き嫌いに関しては、とてもやっかいで、他人に対して勝手に夢を見て、勝手に幻滅する。自分の予想で他人のスペックを高いと決めつけて、その人を崇め立てて、しかし時がすぎ、実はその人のたいしたことがないとわかると、とたんにその人を憎み始める。その人を崇め立てていた自分の時間を返せとばかりに。

私ははっきり言ってこの傾向の人間だ。今までこのようにして他人を嫌ってきたことを、最近、同じ傾向の人から嫌われてみて初めて知った。で、ただいま反省中。

それに対して現実を受け入れる傾向の人間は、ここまでやっかいではない。でも、似ている。自分の心情や自分の行動規範と合わない人のことを隔離したがる。その人に対する日常的な細かな期待が裏切られるたびに、その人とはかかわらずにおこうと思う。

つまり他人に対して期待するという感情を排除してしまえば、他人を嫌うという感情も同時に排除されるものなのかもしれない。しかし、そうなるともう、その人は人間ではない。

第二に、人間は、意味もなく他人を嫌う。

生理的にダメという個人的な趣向に基づいていたり、歴史的な差別の感情が背景にあったり、政治的な衝突に影響を受けていたり、家族や友達や恋人が嫌うから自分も嫌いになってしまっていたり、あるいは本当に、なんの根拠もない、八つ当たり的な感情であったり。

つまり、他人から嫌われることを避けるのは不可能なのである。

人がそこにいる限り、芽生えてしまう現象なのである。

怖がって、逃げ回っていたら、何も得られない。

金にしろ、夢にしろ、ほしいものがあるのであれば、他人から嫌われることに慣れて、笑っていられる人にならねばならないのである。

自分に害のある自己防衛本能をふりはらって、風に吹かれたい。