社会への適応

人から嫌われることに慣れる 04

A 嫌いな人を、非存在と切り捨てる。

あるいは、

B 嫌いな人でも、嫌いではないふりをしながらつきあう。でも影で悪く言う。

どちらがいいのか。

嫌われたほうの立場に立ってみる。

Aは、かなり厳しい。どうしたらいいかわからなくなる。自分を顧みて反省点を探したくなる。

Bのほうが、ぜんぜんいい。影で何を言われようが、少なくともその人が私の目の前にいる時間については、不愉快な気分にさせられないという安心感がある。しょせんこの人は、陰口をたたくぐらいしかできない程度の人間なのだと、醒めた目つきでいられる。

しかし、嫌う方の立場に立つと、私は確実にA。

嫌いな人を徹底的に傷つけようという無意識の選択であり、同時に、まったく社会的に成熟していない、小さな子供の自然な反応と同じでもある。

いやなものはいじめる、あるいは、無視する、という子供の行動と同じ。

でもだからといって、私がもっと社会的に成熟して、陰口をたたくほうの人間になりたいかというと、そうでもない。裏表の激しい人間は、やはりどこか信用ができない。裏表をわかっていて、それを楽しむという行為は、デビ婦人クラスの大人の社交場を連想させる。働かなくても毎年2億円以上稼ぐ人々の暇つぶし的な。つまり、そこまで突き抜けて裏表を娯楽にしてしまえば素敵だけれど、普通はそうはならない。どこか薄暗く、湿っぽく、不安定だ。

ただ私の場合、陰口を言わないというより、言えないという要素の方が大きい。

理不尽にひどい目に遭わされた事実を思い起こすうちに、私はみじめになる。自分が可哀想になる。で、泣く。あっさりと。職場で他人が周りにいても涙が出てくるので、その涙を隠すためにいろいろがんばる。深呼吸をしたり、歩き回ったり、ダミーの目薬を差したり。

こんな状態なので、それを口に出して悪口として他人に伝えるなんて、ぜんぜん無理。かなり上から目線で、あの人はああゆう人だと一言で切って捨てることならできるけれど、自分がどのような酷い扱いを受けたかを赤裸々に語ったことはない。もし語るとしたら、私は確実に泣く。でも泣きたくない。どう考えても子供の涙と同じだから。なにゆえこの程度のことで泣くのだと、うろたえる仕事関係者の顔しか思い浮かばない。

・自己評価を他人に依存しすぎている。
・他人に対して敏感すぎる。

それが根本原因であり、

・自分は自分であり自分のことを考える。

これが解決策。

そんなことはわかっている。
でもまだ時間がかかる。