社会への適応

人から嫌われることに慣れる 03

たとえば10人ほどの飲み会

1人でも嫌いな人が参加するとする

私は参加しない

残りの9人の中に、どうしてもその場でなければ会えない人がいれば、しぶしぶ出るかもしれないが、そういうことはまずない

断る理由などたくさんある

ただ、不可抗力で嫌いな人と同席しなければならなくなることもある

その人が出席することを、私が知らなかったり、その人が、飛び入り参加してきたり

私は思いっきり不機嫌な顔になる

顔に出る、というか、出さずにはいられない

そんな私を、遊び友達は「意外と子供だね」と言って笑う

たしかに彼女たちはたくましい

嫌いな人と一緒にゲームで盛り上がり、その人がいない場所ではその人の妙なところを笑いのネタにする

裏では「本気で嫌いだ」と言いながらも、本人の目の前では適当にやりすごす

子供の頃は、そういう女の裏表が怖かったけれど、今はうらやましい

テクニックとして身につけたいと思う

なぜなら、私の場合は、嫌いと思った瞬間に、その人を完全消去してしまうのである

その人を見ない、声を聞かない、裏で悪口も言わない

しゃべりかけられたら、ものすごく不機嫌に答える

誰がどう見ても、私がその人を嫌いな状況になる

やたらとわかりやすい

わかりやすすぎる

そういう潔さや、裏表のなさに、安心する人もいるのだけれど、しかしやはり、ちょっとした飲み会を適当にやりすごすくらいの心の広さは持ちたいと思うのだ

問題は、私が、「その人が嫌い」という気持ちを、顔や態度に出して表現せずにはいられないことだ

もしかしたら負けたくないという気持ちの一種なのかもしれない

あるいは、その人を傷つけてやりたいという意思のあらわれなのかもしれない

人から嫌われることによって、私はすごく傷つく

人に対して敏感すぎる

どうでもいい通りすがりの爺さんに冷たい態度をされるだけで、妙に引きずったりするのだ。ほとんど笑い話なくらいに

だから、逆に、自分が冷たい態度をすることによって、私の嫌いな人を傷つけようとしている

たぶんそれが真実

自分が傷ついた分だけ、他人を傷つけようとする

ある種の復讐

つまり、嫌いな人に対しても笑顔で接することのできる多くのたくましい人々は、小さな復讐心を、誰かにしゃべって日々吐き出して消化している、ということなのかもしれない

そう考えれば陰口も悪くない

自分の美学に反すると思い、かたくなに閉ざし続けてきた口を開いてみたくなった