他人の中の自分

他人の中の自分12

アメリカのテレビドラマでよくあるパターン。同じような社会的地位の個性豊かな友達グループが、さまざまな事件に巻き込まれながらも、それを乗り越えていく。

友達グループは、互いに痛みを分かち合っているが、グループ外の人たちに対しては、そうでもない。それぞれの人が、自分がつき合うにふさわしい人を選別することによって友達グループは生まれ、その中で友情が生まれる。同時に、選別から漏れた人たちのことは見ない。それが友情の基本。

身の周りにいる弱い奴を切り捨てようとするか、それとも、その人と痛みをわかち合おうとするか。

たいていは、切り捨てる。

1 人は、自分に火の粉がふりかかってくることを恐れる。弱い奴を排除して、安全地帯を維持し続けようとする。

2 人は自分の価値が下落することを恐れる。自分より弱い奴とつき合うことによって、自分まで弱く見られることをいやがる。

あるいは、単に興味を持たない。弱い奴が視界に入ってこない。弱い奴が、無意識のうちに、自分の人生に何の影響も与えない者とカテゴライズされる。カテゴライズされた後は、二度とそっちを見ない。

しかし、そんな友達グループの中の人々も、恋愛になると全く異なる動きをし始める。自分にふさわしくない男を切り捨てる女もいるが、弱い男の強さにすがる女もいる。ベースは動物としての本能であり、ふさわしい/ふさわしくない、は最初は気にしていても途中で放棄して幸せになる。二人セットで幸せになることが目標となる。

たいていは、切り捨てる。
弱くても、やたらと愛しい人、弱くても、自分とは違う意味で強い人、それ以外の弱い奴は切り捨てる。

だから私が怯える必要はないのだろう。私だけがずるくて冷酷なわけじゃない。
やたらと清い自分でいたがるのは古来の固定的な道徳観念にとらわれているからにすぎない。
自分の中のずるさと冷酷さを封じ込めるのは間違っている。
どうあがいたって、それらは消えない。
むしろ、直視するべき。